トムから「招待する」ということを含めて、もっと詳しく聞きたかったが時間がなかった。ピースラン一行を青森県に送り出す別れ際のことで、遽しかったかったのだ。
私は、インディアンランナー達が乗っているバスに向かって叫んだ。
I love Indian!
世辞でも、御愛想でもなかった。私は、彼等ネイティブアメリカンを心底から好きになりかけていた。
インディアンショックは年内続いた。
晩酌時の話題と言えば、いつもインディアンのことだけだった。
彼等の自然観、宗教、生活環境、砂漠のこと、インディアン自身から聞いたことや本から仕入れた知識など、毎晩だった。
そんな折り、トムから手紙が届いた。
アメリカにおけるインディアンの立場、若いインディアン達のこと、貧乏だということ、そして私の鍼治療をアメリカで披露して欲しい、また、彼自身、鍼治療の技術を学びたいことなどが綿々と書かれていた。
あのときのトムの言葉は、嘘ではなかった。私を、アメリカによぶことを真剣に考えているようだった。
この手紙をもらってから、私もアメリカ行きを真剣に考えるようになった。
が、問題は山ほどあった。
仮に、来年1989年にアメリカに行くにしても、私が抱えている問題を解決するには、時間的余裕があまりにも少なかった。
私の傷害のこと、言葉のこと、現地での移動のこと、治療院の診療のこと、私の4人の子供達のこと等々。
楽しいはずの気分も、ややもすると落ち込みそうになった。
最大のネックとなったのは、私の視力障害から派生するところの諸問題だった。
それでも、聖地ビッグマウンテンとサンダンスの魅力は、私の心の不安を払拭するのに十二分のパワーがあった。